温古堂を追い出される

2010年12月6日 16:18

話しが少し前後してしまいますが、私が橋本敬三先生のところで、丁稚奉公を終え東京で開業したいきさつも、先生の一言で決まってしまったのです。

5年あまりの修行時代を過ごしたのでしたが、まだまだ先生の側にいて学んでいたかった、というのが私の本音でした。
先生の側にいられることが最高に幸せだったのです。ところが私の思いは一瞬にあわい期待だけで打ち砕かれてしまったのです。
私は鍼灸の学校の卒業を目前にしていました。鍼・灸の国家試験にもなんとか合格させていただき、卒業後の進路もボチボチ考えなければならないという矢先に、温古堂を追い出されてしまったのでした。

(悪【ワル】をして破門されたという訳ではないので、誤解しないで下さい。私は先生に可愛がられ、愛されていましたから・・・・)

卒業を目の前にした三月のある日、大きな火バチを囲んで、先生と私はおいしいお茶を飲みながら、向かいあっていました。突然、先生は「こんなところにいつまでも、いる必要はない!佐助、おまえは東京で開業しなさい」と切り出されてしまったのです。

一瞬絶句です・・。佐助とは、先生が私につけて下さったあだ名です。どうして佐助かと言いますと、「おまえはいつもワシの話を最後まで聞かずに飛びだしてしまう、まったくおっちょこちょいですばしっこいヤツだ!」ということで、佐助というあだ名がついてしまったのでした。

実は、話が前後しますが、私が弟子入りする時、先生は神戸にいる私の父を仙台に呼んで、「当分の間、息子をあずかるが、それでいいか」と、承諾させたというのです。そこまで配慮して下さった先生に、心から感謝です。このことは開業してから父に聞かされてはじめて知ったことでした。

そうして5年間の修業がスタートしたのでした。
スタートするに当り、先生は私に「ワシのことに気をつかうことはないからな。どうか家族の者に嫌われないように心してくれ」と言われたのでした。その先生の励みの言葉を胸にして、私は修業の毎日に入ったのでした。幸いにも先生の奥さまに私は気に入られ、順風に着々と志を全うしていくことができたのです。

奥さまの心づかいは、とっても温かなもので、身に入るものでした。食事にも気を配っていただいて、なによりもありがたく感謝したのは、ご家族の方々と同じ食事を一緒にとらせていただいたことです。それも腹一杯にお腹を満たすことができたことでした。

そして、奥さまは私の耳元で「三浦さん、何一つ心配しないでいいのよ。オジイチャンが目をかけ、弟子にとったのだから、安心して、思う存分学びなさい」と言って下さったことです。これは奥さまが先生にむけた、信頼のきずなでもあったのです。奥さまは照れやの方でしたが、こよなく先生を信頼され、愛されていたのでした。それが、私に対して「何一つ心配はないから、思うぞん分、おじいちゃんの側で学びなさい」という言葉にあらわれているのではないでしょうか。

先生と奥さまの日常を5年余り、肌で感じ見させていただき、先生と奥さまのエピソードが私の脳裡にたくさん、つまっています。それはまたの機会にお話できるでしょう。

先生と奥さまの間には6人のご子息がおられますが、この奥さまの力は絶大で、どのご子息も「肝っ玉母さん」と尊敬し、親しみ、家族愛に満ちたものでした。

 その中で、年に何度か三男のホテルオークラ勤務の保雄さんが、東京から帰省され(のちにホテルオークラの副社長を勤める)、私をつかまえ「三浦君、オレが一番恐れるバアサンにすごく可愛がられているようだな。バアサンのどこをくすぐったらああなるんだよ。オレにも教えろ!!おまえ、とにかくバアサンの目にかなってよかったなァー、バハハハ・・・」と、豪快に笑い飛ばしたあの笑顔が今も忘れられません。その保雄さんも06年の夏に他界されてしまいました。
私が開業するにあたって、淡島の治療室を紹介してくださったのも保雄さんであり、人体構造運動力学研究所の看板(木製)をプレゼントして下さったのも、保雄さんであり、開業して7年後、ホテルオークラのヘルスクラブの顧問に迎えて下さったのも、保雄さんでした。
それも、これも先生が「弟子の三浦の面倒を見てやってくれ」とのご配慮があっのであろうと感謝せずにはいられないのです。

『人のご縁はとくに大切にしなければならない。切るのは簡単である。このご縁を大切にしたければ、「こたえていく」以外にないのである。ご恩を忘れず、こたえていくこと、それが一番の誠意であろうか、それが自分がみがかれることであり、自分が自分として立っていけることなのだろう』と思います。
保雄氏は先生のよき理解者となり、NHKのドキュメンタリー、NHKの「人生読本」への働きかけを実現され、又、先生の意志をくまれ、ホテルを利用する大切なお客様の健康をねがい、日本で最初のヘルスクラブをホテルオークラにオープンさせました。保雄さんが定年退職を迎えられた年に、副社長室によばれ「三浦君、オレは退社するがおまえはどうする。しばらくいてくれないか、おまえのためにもいいはずだ」と言って下さいました。
私はオークラの顧問を保雄さんから託され、30年以上になります。当初は橋本先生への恩返しのきもちで、保雄さんが他界された後は保雄さんへの恩返しのきもちで、ご奉仕させてもらっています。
生前、保雄さんが、三浦君、もっとオークラを利用しなさい、とハッパをかけられたこともありますが、たとえ、世界のオークラであっても、自分のために利用するきもちにはなれなかったのです。ひたすら、師のご恩に報いることだけを考えていたからこそ、奉仕に励んでこられたのです。もう、お前さんには用はないよ、と言われれば、だまってオークラを去るだけのことで、何も最初から私には失うものはなかったのですから、十分に満たされてオークラを去ることができるのです。